刀に教わる
小刀を差す
刀が、単に戦うための武器なら、ヤクザのように一本差しでも充分だし、二本指すなら長いもの二本差すのが合理的だ。それがなぜ、サムライは大小二本を差したのか。そんな疑問を、恩師・武田治衛先生に呈(てい)したことがある。
先生は「小刀は、切腹するために差しているのだ。」と、教えてくださった。
誰でも知る通り、サムライには、切腹という特権があった。切腹は、死刑のような償いではない。崇高な心を証明する、最高の実証手段として、サムライが発明した、尊い行為なのだ。命は、何よりも尊いものだが・・・。サムライは、清らかに潔(いさぎよ)く生きることに、命の、より美しい価値を見出していたのだ。殿中で、小刀を差すことが許されたのは、小刀が、サムライの魂と考えられていたからに外ならない。
正宗の小刀は、幾振りも国宝になっていて有名だが、小刀は、切腹という一世の舞台を飾るものであるから、どのような刀工も、小刀を打つときは、特別な思いを込めたのである。
さて、今の剣道では、二刀流が盛んだ。小刀を、武器の一環として使うことに、誰も何のためらいもない。私たちは、サムライが小刀を差す意味を、忘れてはいないだろうか。つまり、サムライの心を、サムライの末裔である剣道家は、忘れてはいないだろうか。小刀の鞘を払うのは、サムライ最後のときこそ、美しいのではなかろうかと思う。
大刀を差す
武田先生の教えに続きがある。
「小刀は、サムライの名誉を守ったが、大刀は、大義(正義)を守るために使われた。」
大刀を差すことは、サムライの特権を、見せびらかすためではなく、いつでも命を懸けて大義を守る、その責任を果たす意思を示していた。大義を貫くために、サムライが取った最も確実な戦法は、相打ち差し違えだった。先に斬らせてから斬れば、相手を逃すことはなかったからだ。そのための覚悟を、毎朝、腰に差す大刀が暗黙に教えてくれたのだ。大刀にも「サムライの魂」は宿っているのだ。
刀研(と)ぎ師の看板には「心の研ぎ処(どころ)」てあった。いつでも切れる状態にしますから、いつでも死ねる覚悟つくってくださいという意味だ。サムライが、大小どちらか抜くときは、すでに自分は死ぬと決まっている状況しかない。刀を抜いでから、捨て身の心をつくるのでは、遅すぎるということである。
剣道とサムライの心
江戸っ子の粋と心意気が、サムライの心に負けまいとする、意地から起こったように、サムライの時代は、人々がサムライの心を模範として生きて、世界中で、最も美しい国【日本】を作ることができた。その日本と日本人の心の美しさを、何とか未来の日本に、そして世界に残すことはできないか・・・。そんな希望があって、剣道は伝わっているのだ。
しかし、サムライの心は、剣道段位や肩書に付いてくるものではないし、まして、試合で得られるものでもない。相手に勝とうとする竹刀剣道では、サムライの心は、つかみ切れない。剣道には、防具稽古ばかりではなく、刀を知り、刀に見合う心を作る、様々な修行が必要なのだ
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