驕る心
1、小川忠太郎先生(20代から私淑した先生)が、「コロコロ変わるから【心】という。」と教えてくださった。
2、武田治衛先生(剣の道へ手を引いてくれた先生)は、「剣道は【人格】がそのまま現れる。」とおっしゃった。
私が二十五歳のとき、日本選手権の県予選で後輩と当たった。何度も稽古しているので、手の内は十分わかっている。体調は十分で絶好調、楽勝のはずだった。
ところが、試合が始まってみると、金縛りにあったようで体が動かない。勝てるという驕りが、油断を連れてきたのだ。ただ・・それだけなら良かった。
終盤間際、あせる私に、後輩の必死の小手が腕をかすめた。と・・審判の旗が上がった。私は思わず、「入ってねえよ!」と叫んだ。
(えっ!)私は、自分自身を疑った。私は、そんなことを言う人では無かったはずだ。潔(いさぎよ)い自分を誇る人だった。言ってどうなるものではないことも、重々承知のはずだったのに・・。油断した心は、とんでもない魔物に変わった。
欲に眩み、審判に文句を付け、勝ちに拘る自分の罵声に、『ああ、これが俺の姿か。』と、深い自己嫌悪に陥った。
私は顔を赤らめ、惨めな気持ちで竹刀を納めた。まさに恐ろしいのは自分の心だ。このとき勝っていたら・・。恐らく、命取りになっていただろう。負けたことが、道を進むきっかけだった。
純粋な心
北辰一刀流門弟の沼川達哉君が、次のようなことを言った。
「武道には『人に勝つ』ではなく、『己に克つ』という目的があるところが、スポーツよりも優れていると思います。それで私は、つい怠けがちな自分を良くするために、厳しくも尊い教えのある『剣の道』を選びました。
スポーツは他者と競い、現在の絶対的な差を求めるために、最新科学によるトレーニングを頼ります。しかし、それは、日々進歩しているため、どれを信じてトレーニングに打ち込めば正解なのか、誰も分かりません。トレーニングに頼る、スポーツの未来は、混沌としていて不安定です。 一方武道では、他者と競わず、自己の精神を鍛えることが目的となります。これには、新しいトレーニング方法はありません。立派な修行者の実践してきた道を、たどるしか方法がありません。それで、術ではなく【道】と名付けられているのだと思います。
武道の修業を【稽古】というのも、そのような意味からでしょう。古(ふる)きを稽(かんが)える。つまり、過去の人々から学び取ることだと思います。そこには、過去の歴史が目の前に現れるという【感動】さえあります。このように、武道には普遍性があり、そこに頼り甲斐のある【道】という魅力を感じるのです。』
馬齢を重ねると、つい先生ぶって、良い心と悪い心を上手に使い分けてしまう。師について学ぶ者は、常に純粋な心を失わない。良い心しか使わない、馬鹿にみえる、純粋な道が、いつも眩しい。
<剣道/剣道場工事/剣道場床板>
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