座禅
小川忠太郎先生の座禅は、禅の高僧が理解できないほど深いと言われていた。しかし、小川先生は「座禅は、何にもならない」という。(ほんとかな~。怪しいぞ!)持ち前の好奇心が頭をもたげた。
【三年掛かっても、良師を選べ】という言葉がある。小川先生に尋ねた。
「茨城では、誰に就いて座禅をすればいいでしょうか」
「今の日本には、本物の師はいない。数息観だけして居れば良い」
数息観とは、自呼吸を百まで数える座禅のことだ。誰でも、わけなくできることだが、三つの条件がある。
a.勘定を問違えないこと b.雑念を交えないこと c.以上二条件に反したら1に戻すこと これは何でもないようだが、実際は容易でない。本当に数息観のできる者はいないと、小川先生は言った。誰もできないことに、チャレンジするのは楽しい。無謀を顧みないバカさが、人生を面白くする。
さっそく、毎日、朝な夕なに、線香を立てて、道元や空海などは問題外、達磨を越えて釈迦まで行かねば価値がないと、、高僧気取りで、ウンウン唸って数息観。お釈迦様は、三十五歳で悟りを開いた。同じ歳になるまで、まだ時のあるのが楽しみだった。
あるとき、座禅する私の前に、いろいろな化け物が現れた。どうも魑魅魍魎(ちみもうりょう)というらしい。居るはずないのに、ホントに見えるものだから、私も、いよいよ変になったかと思った。
お釈迦様が禅定に入り、悟りを開くまでの七日間、魔王マーラが顕われて、変幻自在に、誘惑や悪さをしたことは知られている。座禅によって脳細胞が刺激されると、潜在意識が活性し、様々な幻想を見せるらしく、(はは~っ、あの化け物は、釈迦を悩ませた悪魔と一緒か。)と思い、ますます座禅が面白くなった。
嬉しくて、そのことを、佐藤博信先生に話してみた。佐藤先生は警視庁特錬時代、主席師範が小川先生であった関係から、座禅も、かなり錬り込んでいた。
「先生、座禅やってて、妖怪みたいなの出てきませんでしたか?」
「出てきたよ。お前も出てきたのか。俺は、面白くて小川先生に言ったら、『そんなのしょっちゅうだ』」と、にべもない返事だったという。
お釈迦様は、魔王マーラを退散させ、明けの明星を見て、悟りを得られた。私も、魑魅魍魎を退散させれば・・・と意気込んだ。ところが、私の魑魅魍魎は、一回きり。あれから出てこない。座禅の最中に、何にも出てこないと、数息観だけでは飽きる。
これではいけないと、仏教の本に手を付けたり、お経も読んだ。だが、当たり前のことしか書いてない。当たり前ということは真実ということなのだ。しかし、真実はつまらない。私のファンタジーは、何処へ行ってしまったのだろうか。
少し前、ポケモンGOが流行った。お年寄りまでが、バカみたいに熱中していた。そのとき、ふと思った。小川先生が、死ぬ朝まで座禅をやれたのは、魑魅魍魎とポケモンGOやってたからかも知れない・・と。そういえば、しょっちゅう出てくると言ってたし、座禅は、怪しいぞ~。
Comments